経営学研究者の卵の日常。

24歳。経営学の大学院に通う、研究者の卵です。基本的には自分の頭の中の整理と備忘録、”研究を日常に落とし込むこと”が目的の日記です。神戸在住。北海道に住んでいました。食べることと、カッコいいものが好きです。

「空気」の研究

久しぶりにいい本を読みました。

山本七平さんの「空気」の研究(文春文庫)です。

以下は抜粋で、前後のコンテクストがないので理解できないと思いますが、個人的なメモなのであしからず。

 

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「それ(空気)は非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。」(p. 22)

 

「一体、臨在感的把握は何によって生ずるのであろうか。一口にいえば臨在感は当然の歴史的所産であり、その存在はその存在なりに意義を持つが、それは常に歴史観的把握で再把握しないと絶対化される。そして絶対化されると、自分が逆に対象に支配されてしまう、いわば「空気」の支配が起ってしまうのである。(p. 40)」

 

「大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことであろう。(p. 64)」

 

「一方われわれの世界は、一言で言えばアニミズムの世界である。この言葉は物神論(?)と訳されていると思うが、前に記したようにアニマの意味は”空気”に近い。従ってアニミズムとは”空気”主義といえる。(p. 69)」

 

「われわれの社会は、常に、絶対的命題を持つ社会である。「忠君愛国」から「正直者がバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨在感的に把握し、その”空気”で支配されてきた。(p. 71)」

 

「われわれの通常性とは、一言でいえばこの「水」の連続、すなわち一種の「雨」なのであり、この「雨」がいわば”現実”であって、しとしとと降りつづく”現実雨”に、「水を差し」つづけられることによって、現実を保持しているわけである。従ってこれが口にできないと”空気”決定だけになる。(p. 92)」

 

「固定的規範というものは、人間を規定する尺度でありながら、実は、人間がこれに関与してはならないのが原則であり、従って、きわめて「非人間的」であり、また非人間的であることを要請される。(pp. 114-115)」

 

「ところが日本は元来、メートル法的規制、人間への規制は非人間的基礎に立脚せねば公平ではありえないという発想がなく、全く別の規範のもとに生きてきた。いわば元来の発想がきわめて情況倫理的なのである。(pp. 123-124)」

 

「情況倫理という日常性は、否応なくここへ行きつき、ここに到達して一つの安定をうる。「一人の絶対者、他はすべて平等」の原則。(p. 127)」

 

「情況倫理とは、集団倫理であっても個人倫理ではなく、この考え方は、基本的には自由主義とも個別主義とも相いれない。(p. 128)」

 

「それはアメリカのもたらしたイデオロギーが、「自由」と「民主」の二つだったという面白い事実に基づく。アメリカ人は、実に素朴にこの二つが結合するものと考えていた。(p. 137)」

 

「もちろん言葉もスローガンとしてシンボルになりうる。従ってそれが「尊皇攘夷」であれ「文明開化」であれ、その言葉が分析すべき意味内容をもつ命題でなくシンボルである限りは、その転換は、これらの「標語」の意味内容とは関係なく、それへの感情移入が成り立てば、すぐに転換し、「空気」を醸成し得て当然である。(pp. 154-155)」

 

「虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。従ってそこに「何かの力」が作用して当然である。(中略)簡単にいえば、舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。(p. 161)」

 

「まず、”空気”から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」になること。(中略)そして、それを行いうる前提は、一体全体、自分の精神を拘束しているものが何なのか、それを徹底的に探求することであり、すべてはここに始まる。(p. 169)」

 

「その証拠に戦争直後、「自由」について語った多くの人の言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使しうる「空気」を醸成することに専念しているからである。(p. 172)」

 

「人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に、画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。(p. 216)」

 

「臨在感的把握に基づく行為は、その自己の行為がまわりまわって自分にどう響くかを判定できず、今の社会はその判定能力を失っているの意味であろう。(p. 218)」

 

「このことは、「うやむやにするな」と叫びながら、なぜ「うやむや」になるかの原因を「うやむや」にしていることに気づかない点にも表れている。いわば「うやむや反対」の空気に拘束されているから「うやむや」の原因の追究を「うやむや」にし、それで平気でいられる自己の心的態度の追究も「うやむや」にしている。これがすなわち「空気の拘束」である。(p. 223)」

 

「結局、民主主義の名の下に「消した」ものが、一応は消えてみえても、実体は目に見えぬ空気と透明の水に化してわれわれを拘束している。いかにしてその呪縛を解き、それから脱却するか。それにはそれを再把握すること。それだけが、それからの脱却の道である。人は、何かを把握したとき、今まで自己を拘束していたものを逆に自分で拘束し得て、すでに別の位置へと一歩進んでいるのである。人が「空気」を本当に把握し得たとき、その人は空気の拘束から脱却している。(pp. 228-229)」

 

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